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開運★当り隊

仏教の守護神である開運大摩利支尊天を奉安することから摩利支天徳大寺とも称し、日本三大摩利支天の一つとして、江戸時代から聖徳太子の御作と伝わる摩利支天像をお祀りしているそうです。
摩利支天(まりしてん)とは、仏教を守護する天部の神で、参詣祈願の人々に「気力・体力・財力」を与え「厄を除き、福を招き、運を開く」と伝えられております。
昔は、武士階級の守護神として摩利支天への信仰が広まり、楠木正成や足利尊氏や毛利元就や徳川家康などの武将たちは、摩利支天の尊像や旗印と共に合戦に出陣したと云われました。
忠臣蔵で知られる大石内蔵助も髷の中に摩利支天の小像を入れて討ち入りに臨み、本懐成就を遂げたと伝えられております。
江戸時代中期以降には、民衆の間にも摩利支天信仰が盛んとなり、聖徳太子の御作と伝わる御尊像に開運吉祥の御利益を授かろうと、全国より参詣が押し寄せるに至ったそうです。
本堂正面の扁額「威光殿」は、威光の化身たる大摩利支尊天の拝殿の意として、吉田茂・元総理大臣の揮毫により寄贈されたものだそうです。
東京都台東区上野3-25

運気をアップ上野のパワースポット開運大摩利支尊天

徳大寺は江戸時初めの寛永年間に慈光院日遣上人によって創建され、正式には日蓮宗妙宣山徳大寺です。
また、仏教の守護神である開運大摩利支尊天を奉安することから摩利支天徳大寺とも称し、下谷広小路(現在の上野広小路)に位置したことから、下谷摩利支天とも呼ばれて参りました。

摩利支天徳大寺の入口二木の菓子の看板が見える境内

寺宝として奉安する摩利支天像は、江戸時代中期の京都にて霊夢感得されたご尊像と伝わり、1708年に安置されました。
その一連の経緯は、1815年に発行された『摩利支天略縁起』に、次のように記されております。

派手な提灯が多く並んでいます威厳がある雰囲気の本殿

「当寺奉安の摩利支天尊は、施無畏の後身、聖徳皇太子の御手彫なり。下総正中山法華経寺、第五十五世、成遠院日達上人、京北叡昌山本法寺貫頂として、既に正中輪番に下らんとて、東方弘通の擁護を祈られしに、或夜夢らく、尊天来臨ましまし、東の方に立たせ給うと。実に其年正月二日の夜なり。
覚めて後、見に一の霊像を感得し見るに、夢に拝する如く異なることなかりき。躬暫くも離たず。
弘通功成りて、帰京の日、霊夢の事を思い、此尊天、東土に縁のましますとて、即ち当寺に什襲奉安し、永く自他の利益を仰ぎ願う。」

御行菩薩に水をかけます本殿の中はご利益が有りそうな分機器です

以後、聖徳太子の御作と伝わる御尊像に開運吉祥の御利益を授かろうと、全国よりの絶えざる善男善女の参詣により山門は俄然活況を呈し、いつしかその門前通りは下谷広小路の摩利支天横丁と呼ばれるようになりました。
時代は明治へと移り、江戸が東京と改められると、上野の街は東京市下谷区に編入されました。
この頃には、毎月亥の日の御縁日に摩利支天横丁を中心に多くの露店が立ち並び、大変な賑わいを見せるようになります。
その後、大正12年の関東大震災、昭和20年の戦災による火災類焼によって、堂宇は2度にわたり灰燼に帰しましたが、奉安の御尊像は幸いにもその都度焼失を免れて参りました。

宝くじ高額当選のお願い拝殿の前で参拝記念撮影

そして終戦後の混乱期、闇市の出現などによる町並みの変化に伴い、移転再建が検討されながらもこの地に留まり、昭和39年堂宇再建の悲願が結実され全伽藍の復興を果たし、今日の姿に至っております。
本堂正面の扁額「威光殿」は、威光の化身たる大摩利支尊天の拝殿の意として、吉田茂・元総理大臣の揮毫により寄贈されたものであります。 (徳大寺HP参照)。