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財運向上、強運厄除などのパワースポットとしてテレビでも紹介され、日本橋を舞台とした映画「麒麟の翼」にも登場した人気の神社です。
平成28年に御鎮座550年を迎える小網神社。
社殿を含む建物全部が東京大空襲の戦災を免れたり、第二次世界大戦の際、この神社の御守を受け戦地に赴いた兵士が全員無事帰還したことなどから、強運厄除の神様として崇められるようになりました。
「銭洗いの井」で金銭を清め、財布などに入れておくと財運を授かることから「東京銭洗い弁天」とも呼ばれています。
東京都中央区日本橋小網町16-23

東京日本橋で財運強運勝運で有名なパワースポット小網神社

小網神社正面全景小網神社の入口で参拝記念写真

小網神社御由緒
武蔵国豊島郡入江のあたりに万福庵という観世音と弁財天とを安置する庵がありました。
この庵は恵心僧都の開基で、観世音と弁財天も僧都の作と伝えられています。
文正元年(1466年)、庵の周辺で悪疫が流行し、人々は困り果てていました。
そんななか、網師の翁が海上で網にかかった稲穂を持って庵を訪れ、数日間をこの庵で過ごしました。
ある夜、庵の開基・恵心僧都が当時の庵主の夢枕にたち、網師の翁を稲荷大神と崇めれば、村の悪疫は消滅することを告げます。
夜が明け、網師翁の姿は庵にはありませんでしたが、庵主は恵心僧都の託宣を村人たちに告げ、翁を小網稲荷大明神と称え、神社を創建して日夜祈願をつづけました。
すると間もなく村の悪疫は鎮まり、村人たちは歓喜したといわれています。
領主・太田持資公も、この御神徳を聞き、折に触れて神社を詣でました。
そして土地を寄附し、小網山稲荷院万福寿寺と名づけたと伝えられています。
慶長年間(1596〜1616年)には周辺地域が小網町と名づけられ、神社を氏神と崇めました。
明治維新後の神仏分離令によって社寺は分離、小網稲荷神社として明治6年村社に指定されました。
その後の戦禍を免れ、現在は日本橋地区に残されている唯一の木造檜造りの神社建築となっています。
特に、向拝に施された昇り龍と降り龍の彫刻は見事なもので「強運厄除の龍」として拝されています。
戦後の宗教法人化に伴い、名称は「小網神社」となりました。

鳥居に掛かった立派なしめ縄小網神社の看板

強運厄除の神さま
小網神社はその御由緒から「強運厄除の神さま」として崇められています。
第二次世界大戦の際、戦地へ赴くことになった氏子の出征兵士に対し行った出征奉告祭に参列し、当神社の御守を受けた兵士が全員生還されました。
また、昭和20年東京下町地区に未曾有の災害をもたらした東京大空襲の際は、社殿を含む境内建物は奇跡的に戦災を免れています。
旧社殿は大正12年の関東大震災において倒壊しましたが、当時の宮司は稲荷大神や弁財天等の御神体を抱え、近くの新大橋に避難しました。
そこへ大挙して避難してきた人々に混乱がなく、また新大橋自体も落ちずに、大勢の人が助かったといわれています。
当時の様子は新大橋の袂にある避難記念碑にも「小網神社の御神体を伏して拝み、加護を願った」と記されています。

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東京銭洗弁天・万福舟乗弁財天御由緒
弁財天(市杵島比賣神)は、同じ境内にあった恵心僧都の開基と伝えられる万福寿寺に安置されていた弁財天です。
明治初年、神仏分離令の施行後、当神社と寺院は分離しましたが、その後、計らずも寺院は廃絶したため、明治2年神社に遷座されました。
同寺にちなみ、また像がお舟に乗られているため、万福舟乗弁財天と称しております。
また、境内の「銭洗いの井」で金銭などを清め、財布などに収めておくと財運を授かることから、現在は「東京銭洗い弁天」とも呼ばれ、崇敬を広げています。

大量の五円玉を洗ってますピカピカの大量の五円玉

徳を授ける福禄寿さま
鳥居をくぐって左側には、当神社三之宮の福禄寿さまの御像がございます。
当社の福禄寿さまは、健康長寿の御利益とともに、「福徳」「人徳」「財徳」など、さまざまな「徳」を授ける神様として、日本橋七福神の一柱にもなっています。(小網神社HPより)